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#013-02 再訪、万博記念公園(その2)

​ 太陽の塔を見学した後、記念公園内のEXPO’70パビリオン(万博開催当時は鉄鋼館、5枚)へ。万博の雰囲気を再現する展示が多数あり、当時の有識者達が思い描いていた「未来」を存分に堪能(12枚)。

日本万国博覧会開催当時は「鉄鋼館」というパビリオンであった。万博開催40周年を記念し、2010年3月にEXPO’70パビリオンとしてオープン。

設計は前川國男氏。むき出しのH形鋼が鉄鋼館であったことを表している。

EXPO’70パビリオンの入り口付近にあるエキスポタワーの一部。設計は菊竹清訓氏。

柱、梁、ガラスを固定する枠もH形鋼。床にはレンガ色のタイル(おそらく)が施されている。

別角度からEXPO’70パビリオンを見る。

種々のフォントが使用されていた模様。下段中央に人類の進歩と調和という日本万国博覧会のテーマも。

公式ポスター。桜をかたどった5つの花びらは、世界の5大州を意味し、中央の円は日の丸を表している。大高猛氏が担当。

館内2Fの入り口付近(有料ゾーン)。赤い!

音楽ホール「スペース・シアター」。中に入る事はできないが武満徹氏らの音楽が流れ、幻想的な雰囲気。奥に岡本太郎氏(生命の樹、1/3スケールの模型)の作品も。

当時の上演(光と音の融合による、新しい音楽体験)を再現したインスタレーションを体験する事ができる。

よく見ると天井や至る所に痛みが。約50年・・・。年月を重ねた証がここにある。

当時の入館料。今見ると違和感はないが、1970年代の物価を考えると高いと思った人もいるのでは。

関連グッズの展示ブース。右下に反射してわからないが、タバコが展示されている。時代を感じる一品。

「万博オープニングの鍵」(岡本太郎作)が展示されている。

東京オリンピック(1964年)開催時に好評だったピクトグラムは日本万国博覧会でも採用された。

奥に「手の椅子」(岡本太郎作)が見える。

エキスポタワーの模型も展示されている。

​ EXPO’70パビリオン(万博開催当時は鉄鋼館)を設計した前川國男氏の建築物は岡山にもあります。以前に撮影した各地の前川國男作品をこの機会にご紹介。まずは、岡山市にある前川建築を。岡山県庁舎(1957年、1枚)、岡山県総合文化センター(1961年、現天神山文化プラザ、1枚)、林原美術館(1963年、2枚)。続いて、熊本県立美術館(1977年、2枚)。最後に東京都美術館(1975年、1枚)、前川國男自邸(1942年、江戸東京たてもの園へ移築、3枚)をご紹介。

岡山県庁舎。残念ながらなかなか行く機会が得られない。当時の選定理由は「新しい時代の造形感覚に徹し、清新にして滋味溢れる独創に満ちている」とのこと。主にSRC造、RC造。

岡山県総合文化センター。建物屋上からレリーフ「鳥柱(ちょうちゅう)」を見る(彫刻家、山縣壽夫氏の作品)。建物の打放しコンクリートとマッチしている。

林原美術館。正面から美術館を見る。右奥の外壁レンガが印象的。前川國男氏がレンガを多く使用しはじめる頃の作品。

美術館内の中庭。シンプルな構成ながら落ち着いた空間が広がっている。緑と赤のコントラストが美しく、焼きすぎレンガの良さが出ている。

熊本県立美術館。訪問時は改修中で中に入れなかった(いつか必ず再訪したい)。レンガを用いはじめた林原美術館の竣工(1963年)から14年。熊本県立美術館は、前川氏にとってレンガを用いた建築物(正確には打ち込みタイル)の集大成と言える。

1977年竣工当時、前川氏は72歳!モダニズムの象徴と言える打放しコンクリートから最後はレンガ(打ち込みタイル)へと至る。

東京都美術館。こちらも打ち込みタイルを使用。打ち込みタイルの特徴である、ポツポツとした穴が見える。

前川國男自邸。戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工。外観は切妻屋根の和風。

1973年まで自邸として使われていたが、解体され部材のまま保管されていた。その後、この部材が東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園内に復元された。

内部は吹き抜けの居間を中心に書斎・寝室を配した シンプルな間取り。建築資材の入手が困難な時期だが、相当豊かで開放的な空間が広がっている。

 今回の主目的は、太陽の塔の見学ですが、万博記念公園内には面白くて興味がそそられるモノが数多くあります。1970年開催から50年近くを経て、老朽化や様々な事情により解体撤去されたもの、補修保存されたものがあります。​前川國男氏が設計した鉄鋼館は2010年にEXPO’70パビリオンとして生まれ変わり、館内は現在も当時の熱気を感じる事ができます。鉄鋼館内の「スペース・シアター」は現存しており、音楽と光の競演をガラス越しながら見学できます。まさに”空間そのものが楽器”と評されたとおりの体験でした(今見て古いかどうか?結果的に今見ても新しいか?は皆様で判断を)。

 1970年当時、万博会場の総合設計を行った丹下健三氏が57歳、テーマ館の総合プロデューサーを担った岡本太郎氏が59歳。会場設営等に関わった著名な建築家たちはそれぞれ、菊竹清訓氏が42歳、磯崎新氏が39歳、黒川紀章氏が36歳、等々みな若い!。スーパーゼネコン(鹿島・清水・大成・大林・竹中)などが施工を担当しているので、このイベントに日本中の建築関係者(特に若い力)が携わったことになります。そんな中、吉田五十八氏(76歳)や前川國男氏(65歳)といった重鎮もパビリオンの設計を担当していました。50代が全体を仕切り、20~40代が現場で走り回り、60代や70代も現場に出つつ見守る。短期間で物凄いエネルギーがそこに集まっていたかと思うと・・・。熱く強いパワーを感じます。

 彼らが思い描いた未来から約50年。果たして人類は理想的に進歩し、調和のある世界を築けているのでしょうか?日本にとって1970年は一つの分岐点になったと言えますが、次の2025年はどうでしょうか?「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマをしっかりと理解し、経済に関する事柄のみがクローズアップされない事を祈りつつ。

参考資料:「大阪万博-20世紀が夢見た21世紀」、「岡本太郎にであう旅 岡本太郎のパブリックアート」、「建築家坂倉準三 モダニズムを住む|住宅、家具、デザイン」、「CASA BRUTUS EXTRA ISSUE 新説・あなたの知らない岡本太郎」、「CASA BRUTUS EXTRA ISSUE 日本の美術館ベスト100ガイド」、「CASA BRUTUS No.133」、「藤森照信の特選美術館三昧」、「各種パンフレット+Web.」他

訪問日:2019年1月22日

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