#008-03 県内の良い処、旧閑谷学校へ

 岡山市中心部から車で約1時間。備前市にある旧閑谷学校を訪れました。


 駐車場から旧閑谷学校へ(10枚)。チケットを購入し構内へ(14枚)。隣接している椿山、御納所(4枚)と少し歩いて黄葉亭(1枚)へ。

校門(鶴鳴門)を見る。手前の低い囲いは泮池(長方形)になっている。ちなみに泮池が長方形の場合は「一」を意味し、俗界と隔絶遮断する決意を表しているとも言われている。

駐車場から見る。芝生、泮池、石塀の対比が美しい。

石橋を渡って、鶴鳴門へ。※池の此岸が俗界、彼岸が修行界。池に架かる石橋を渡ることは、俗界を離れ、修行に徹する特別な世界に足を踏み入れる覚悟を意味することになるので、石橋が重要な役割を担う。

門を見つつ、石塀に目が行ってしまう。

石塀の角の納まりも美しい。

鶴鳴門の瓦は備前焼。どことなく中国風。

駐車場から泮池、石橋を渡った正面に鶴鳴門。門をくぐった先に聖廟があることから、鶴鳴門が聖廟の正門として建てられたことが分かる。

長さ765mにも及ぶ石塀。圧巻の佇まい。

延々と続く石塀。カットされた石が見事におさまっている。技術力の高さがうかがえる。

石塀の西の角。ここから北へ石塀が登って行く様は爬虫類の尻尾がニョルニョロと動きながら登って行くようにも見える。

構内へ。東側の閑谷神社(池田光政を祀る神社)を見る。

二本のカイノキの奥に聖廟がある。カイノキはこの施設のシンボル的存在で紅葉の時期は多くの観光客が訪れる。

聖廟の中は見る事ができないが、拝殿と大成殿を結ぶ廊下は見る事ができる。六角形のなまこ壁?

カイノキと講堂を見る。

講堂全景。

靴を脱いで講堂内に入ることができる。

花頭窓が印象的。

拭き漆の床はピカピカ。維持管理が見事に継続されている。

習芸斎から石塀を見る。印象的な光景。

小斎。現存する構造物の中では最も古いとのこと。

外から習芸斎を見る。

文庫。

石塀と火除山に挟まれて、資料館へ。

閑谷学校資料館。1905年竣工。

約400本のヤブツバキが植栽されている椿山。木々のトンネルが不気味でもあり、幻想的でもあり魅力的。

椿山を抜けると、光政公の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」がある。

御納所周辺の石塀の曲線の美しに魅了される。

ここでは、石の使い方の違いを感じる事ができる。また、排水溝といった土木技術の高さを見る事ができる。

少し離れたところにある黄葉亭。苔とモミジ、川のせせらぎを感じながら、静かに過ごす場所。

 ある一定の年齢の岡山県人は小学生か中学生の時に必ずここ旧閑谷学校へ宿泊し、論語の勉強を行ったそうです。私は県内出身ではありませんので体験していませんが、体験した知人は夜が怖かったことしか覚えていないそうです。その時、その場がどれほど有意義な空間、時間であったかは、気付かず過ぎてしまうことが多いという一例かもしれませんが、今となっては大変貴重で羨ましい体験だったと思います。旧閑谷学校は1670年、岡山藩主池田光政(1609-1682)によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です(御納所、椿山の造営を入れると1702年まで工事が続いた)。岡山の観光地の一つ、後楽園の竣工が1700年なので、池田光政、息子の池田綱政(1638-1714)時代が名所建築ラッシュだったといえるでしょう。藩主の意向を受け、旧閑谷学校、後楽園、両方の造営に深くかかわったのが津田永忠(1640-1707)でした。他に新田開発、用水開発、曹源寺、吉備津彦神社社殿の建設等、今の岡山の礎を創った一人と言える人物です。黄葉亭の途中に津田永忠宅跡があります。造営中の1673年に転居し岡山に戻る1680年までの7年間、近くで建設に携わっていたことを思うと、他の事業よりもこの閑谷学校の造営が永忠(もしくは池田光政か岡山)にとって最も重要な事業で、かなり力を注いだことが窺えます。

 現在、旧閑谷学校は「日本遺産 第一号」に認定され、さらに世界遺産に!という気運が高まっています。もしも光政公が「山水清閑にして読書講学の適地なり、ゆくゆくは学校に仰せ付けるべし」と永忠に内意したのであれば、観光客でいっぱいになった旧閑谷学校を見て、喜ぶのであろうか?、嘆くのであろうか?それは、世界遺産に認定されて、観光客がいっぱいになってから考えることとします。

参考資料:「日本建築集中講義」、「意中の建築 上巻」、「各種パンフレット+Web.」他

訪問日:2018年10月19日 

閲覧数:1回

最新記事

すべて表示